メニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
PicUp
<Classic8>クラシックエイト

音の運んでくるもの

渡部玄一コラム

メロディー

『音楽』を構成する三大要素は、リズム、ハーモニー(和声)、そしてメロディーだといわれています。

しかし私は、三つの要素のなかでメロディーは別格だと思います。なぜなら、メロディーはそもそも人間の話す言葉からはじまっており、『人間』という 存在も言葉の使用からはじまっていると推測されるからです。さらにいえば、抑揚やリズムのない言葉はないので、言葉がすでにメロディーであるという考えも 成り立つのです。

しかし通常、単なる話し言葉を、我々は音楽であるとはしません。ではなにから音楽が、メロディーというものが生まれたのでしょうか?

小林秀雄の言葉に「悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい」という、非常に深みを持った言葉があります。これは音楽に置き換えるとこういう事をいっているのだと思います。

悲しいとき、泣いたり叫んだりする。
その音は、関係者であれば肺腑をえぐられる様な気持ちを起こさせますが、全く無関係な人には、一時的な感情の乱れを起こさせるのがせいぜいです。しかし、 その悲しむ人が、自分の悲しみを正面から見つめ、その気持ちを整え、特別な抑揚と厳選された言葉で心を表現しようとする。
要するに悲しみにひとつのフォーム、姿を与える。歌の、メロディーの誕生です。

それはもはや誰にも無関係なものではありません。
そして、その歌の姿が美しく、人々が繰り返し聴いたり歌うようになれば、それはもう揺るぎのない確固たるものなのです。諸行無常はむしろそれを聞く側の方にある。「もう悲しいものとは言え」ないのです。人間は古来、こうして喜び、悲しみ、そして敬虔な祈りや感謝の心に姿を 与える歌を作ってきました。人類黎明の頃より生活と共にメロディーはあったのです。メロディーが音楽のあらゆる要素のなかで別格といったのはそのような由 来からです。

歌──メロディーは、子供から大人まで万人が最も興味を示す、音楽の象徴です。幼児がまず口ずさむのは、器楽的な和声の構成音ではありません。言葉に乗って現れるメロディーです。

音楽の美しさ、旋律の美しさに心を奪われるということは、それは取りも直さず自分の魂の美しさに気付くことであり、メロディーに共感する力量は、人間存在に対する普遍的な共感へのバロメータなのです。

いみじくも我が国の言葉は、メロディーのことを『調べ』といいます。時々お気に入りの音楽を聴いて、ご自身の魂の状態を“調べて”みるのはいかがでしょうか?

渡部玄一・文
「PAVONE」第9号より転載