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<Classic8>クラシックエイト

音の運んでくるもの

渡部玄一コラム

音楽

大学を卒業したての頃に、昔父親がお世話なったドイツの言語学教授宅を訪れたことがありました。滞在中のある日、その教授御夫妻に誘われて散歩に出 かけました。ドイツは散歩が文化というところもあり、先生宅からすぐに美しい林のある散歩道がありました。その当時の私は国際コンクールを受ける前かまた は受けた直後かで、大変疲れていて、散歩などというものも実に久しぶりだったことをよく覚えています。

散歩の途中、木々の梢を風が通り抜ける音がざーと聞こえて、それはなんとも背筋が震えるほど気持ち良く、私は思わず同伴している老教授に「これは素晴らしい音楽ですね」と言いました。すると教授は少し不審な顔をして「いや、これは音楽ではないよ」とおっしゃいました。

当時の私は不遜にもこれは感受性の違いだと思い、やはり自分は音楽家だから常人には無い感覚を持っているのだと思ってしまったのです。

その老教授がどの様な意図でその時そうおっしゃったかはいまでは知る由もありませんが、その言葉は実に正しかったのです。そう、梢を揺らす風の音はいかに美しくとも、それは音楽ではない。

いまの私は、日本人が他の民族に突出して、その様な自然界の音に音楽を感じる部分の脳で反応する、という事も知っています。しかしそれでもなお、それは「音楽」では無いのです。なぜならそれは人が人のために作ったものでは無いからです。

―お前が勝手にそんなことを決めるなーと言う声が聞こえそうですが、もう少しお付き合い下さい。美しい自然界の音や愛しい人の声などが、いかに特別であってもそれが音楽では無いのは、例えば絵画で言うととこういう事になります。

素晴らしい光景や愛しい人の面差しは、それは現実であって「絵」ではありませんね。絵画は画家が己の感じたことを、「絵」というものを作ることに依って、視覚を通して観る人に伝える行為です。

音楽も、音という物質を使って、それを聴く人のために創ったり演奏したりするものを言います。誰のためでもない音楽というものはありません。究極的には絵も音楽も、人と人のコミュニケーションを無視しては成り立たないのです。

私があのとき「これは音楽だ」と言ったのは、自分にすでに音楽の経験があったから、そしてそのものが音であったから、感動を音楽という言葉を比喩的に使って表現したに過ぎないのです。

私がその時得た感動を、大手腕を発揮して何とか音に再構築して他人に伝えることが出来たなら、そのものは初めて「音楽」という冠を乗せることが出来るのです。今日も世界中で梢を渡る風の音は鳴り響いているでしょう。そこに人が居ようと居まいと全く無頓着に。

私が危惧するのは、現在、日常であまりにも音楽が浪費されていることです。私は生活の道具や背景として音楽を使う事を、全くいけないとは思っていません。しかし、まるで何かに取り憑かれた様に何処でもかしこでも音楽をかき鳴らしているのはどうしたことでしょう?

私はある時、人気の殆ど無いビルの誰もいないトイレに入り、自分の大好きな曲がスピーカーから鳴っていたのを聴いて、なぜか背筋が震えました。

それはずいぶん昔に、ドイツの林で梢の音を聞いたときの震えとは、全く違う種類のものでした。

渡部玄一・文
「PAVONE」第11号より転載